「わかっていない」のは、自分の方だった。

こんにちは、ディレクターの和泉です。

タイトルで書きましたが、皆さんは、ありますか?
「わかっていないのは自分の方だった。」という経験。

自分はありますよ。しかも最近。そう、前回のFLEDGE第3回勉強会の時のことですよ。

何をわかっていなかったのか?

「わかっていないのは自分の方だった。」を感じたのは、チーム「DIS52」の実践終了後にディレクター陣がフィードバックしている時です。自分はあのとき、彼らに「学習目標やファシリテーションに若干の”押し付けがましさ”を感じる」とフィードバックしました(他にも色々言いましたが、それは割愛します)。しかし、ヘルメさんと安斎さんは違ったんですね。逆に「学習目標のバランスは良かったんじゃないか」と、そうコメントしていたんです。

ディレクターやプロデューサー内でフィードバックが割れることは珍しいことじゃありませんし、実践者が持つ実践観によってそれぞれ捉え方が異なることは悪いことじゃありません。多様な面からフィードバックが入るので、逆に良いことだと思っています。

でも、後で振り返ってみると、あの時はすこし勝手が違ったんですよね。どう違ったかというと、それはまぁ、「自分がフィードバックに臨むスタンスが間違っていた」のではないかと。「間違っていた」というのは言い過ぎかもしれませんが、とりあえず健全ではなかったと思っています。どう健全でなかったかというと、あの時の自分は【自らの中に固定化された「正解」を描いた状態でフィードバックに望んでいた】んですよね。

その正解像は『ワークショップデザイン論』から導き出されているものであり、あの本の中に書かれている内容を自分なりに解釈した結果、自らの中に固定化された「良い学習目標像」と「悪い学習目標像」を無意識化で作り出していたんだと思います。

自分の中に判断軸を持つことは大切ですが、それに縛られて思考を止めてしまったり、過去の似たような体験と照らし合わせて判断を反射的に下してしまったりしては、本末転倒ですよね。あの時の自分はまさにその状態だったと思っています。

「わかっている人間」と「わかっていない人間」の違い

あの状態を言語化できるようになったのは、青山学院大学社会情報学部名誉教授である佐伯胖先生の 『「わかる」ということの意味(新版)』を読んだ後です。その本の中には「わかること」について色々と書かれているのですが、自分が印象に残っているのは下記の一節です。

「わかっている人」というのは、与えられた課題を与えられたものとみなさないで、自分自身で「わかるべきこと」を設定し直すことができる(p.22)

「わかっていない人」というのは、与えられた課題の中では何もかも与えられているとし、何も変えてはならず、問題として直接求められていること以外は何も求めてはいけないと思い込んでしまう(p.23)

さらに、「わかっている人」というのは、自分自身で設定し直した目標を達成していく過程で、当面の課題状況にふくまれる制約条件、生じうる可能性、因果関係、目的手段関係などの必然的関係性を、メタ的に認識することができるそうです。

逆に「わかっていない人」にとって正答を出すことは一種の儀式であり、その決まった方法に従わなければダメだと信じ込んでいる。 そのため「こういう問題はどう解くのだったかな?」ということを思い出そうとばかりするので、ごく当たり前のことがサッパリ分かっていないケースが多いそうです。

「『ワークショップデザイン論』を読み始めた当初は、もっと批判的な目線でこの本を読んでいたのになぁ。」と、久しぶりに反省しました。あの時の自分は、どうにかしてこの本の穴を見つけたいと思って読んでいたし、「まだ言語化されていないだけで、ワークショップのさらに優れたデザイン方法や評価軸は絶対に存在するはずだ!」と、根拠なき確信が満ち溢れていました。あの時の「すでに体系化された理論に真正面からケンカを売る姿勢」を、自分はどこかに置き忘れていたようです。

おわりに

「知識はないが”わかっている人”」と「知識はあるが”わかっていない人”」だったら、断然前者の方が成長は早いです。今回は自分が「わかっていない人」でしたが、明日はあなたが「わかっていない人」になってしまう可能性もあると思います。

お互い気をつけていこうではありませんか。では