「誰かとわかりあえない」という絶望

こんにちは。FLEDGE11期の神田ゆうきです。
たくさんの方のご協力で、私たちのチーム「DIS52」も無事に本実践を行うことができました。本当に有難うございました。

今回は、振り返りも兼ねて、ワークショップ終了後に考えたことについて書きます。
私たちのチームは「誰かとわかりあえないとき、私たちはどうしたらいいんだろう」という問いのもと、即興劇を行いました。

今回のワークショプを踏まえて、私が考えたことは主に以下の三つです。
①誰かとわかりあえないときにどうしたらいいのかは、結局よくわからない。
②即興劇ってなんだろう。
③わたしたちにできること

この3つについて述べていきたいと思います。

①誰かとわかりあえないときにどうしたらいいのかは、結局よくわからない。

私たちのワークショップは、「誰かとわかりあえなかった経験って、あるよね」という着想から始まりました。私自身、あらゆる場において、この人の考えは理解できないと感じたり、できれば関わり合いたくないなあと思ったり、そういう「わかりあえなさ」と出会うことがあります。

 「わかりあえなさ」に対して、論理的に課題を深堀し、打ち手に落とし込むことは可能ですが、それに対して納得感がもてるかというのは結構重要なことだと思っています。ロジックが通っていても結局感情がついてこない。そのような状態で起きているのは「わかりあえなさ」の克服ではなくて、「わかりあえなさ」の解決を半ば諦めた状態での便宜的な解決なんじゃないかと。

 今振り返ると、「わかりあえなさ」を、納得感を持って解消するために、架空の物語の文脈で即興的に演じてみることが、私たちがワークショップという活動を通して試みたことだったのかなと思っています。

②即興劇ってなんだろう。

 そこで問題になるのが、即興劇とはなんだろう、ということです。即興劇で起きている作用が、「わかりあえなさ」の克服するために有効なのではないかという仮説のもと、このフォーマットを使うことにしました。しかし、その仮説が正しいかどうかは、最後まではっきりとわからないままでした。

 そのため、実践日になるまで「なんか即興劇を取り入れれば、感情的な発話が起こりやすい気がする」という感覚を信じて突き進んだイメージがあります。結果として、「誰かとわかりあえないときにどうしたら良いのか」という問いに対して、苦しさと楽しさが入り混じった状態で向き合う状況をつくることはでき、これはひとつの達成だと思います。一方で、わかりあえないとき、結局どうしたらいいのかに関する答えは出ませんでした。少なくとも私自身が納得感を持つことができた解答は、参加者のなかにも私のなかにも生まれなかったということです。

 これを一つのワークショップとして、成功と捉えるのか失敗と捉えるのかは、各自の判断によると思います。「わかりあえなさ」の起源が個人の思想体系の違いから生じるのだとすれば、ワークショップの評価に関しても、わかりあうことはできないことがあるかもしれません。

 「わかりあえないとき、どうしたらよいのだろう」という問いに対する答えが自分のなかで出ていないということは、現状において私は「わかりあえないときはどうしようもないと思っている」という地点にいるようなものだと思っています。実際のところ、どうしようもないんじゃないかとさえ思います。今回のタイトルが「誰かとわかりあえない絶望」になっているのも、そのような気持ちが関係しています。

 そこで、「即興劇ってなんだろう」という問題にもどってくるんですが、「ハイコンテクストな文脈で、共同で物語を立ち上げていく活動」ではないでしょうか。

 頼りになるものやルールがほとんどない状態から、共同で物語を立ち上げていく作業は、グループの中で共通認識を作っていくことを要します。ランダムに人間が何人か集まって、「こういう設定で進めていこう」ということをひとつひとつ積み上げていくことができなければ、即興劇は劇として成り立たないのかなと。
 

③わたしたちにできること

 即興劇を「共通認識を積み上げていく活動」として読み解いたときに率直に感じたことは、「共通認識を積み上げていくことはできるんだ」ということでした。

 「わかりあえなさ」を乗り越える方法について、私は今、納得感のある答えを持っていないし、もしかしたらそんなものは存在しない可能性もありますが、少なくとも共通認識を作って前に進めていく活動はできるのだということを「納得感を持って」知りました。

 私は今後、「あいつとはわかりあえないかもな…」と思うこともきっとあるんじゃないかと思います。というか絶対にあると思います。しかし、今回のワークショプで、体験から「納得感とともに」学んだことは「わかりあえない(かもしれない)人間同士でも、共通認識を積み上げようと試みることはできる」ということです。この感覚を持ち帰ることができたのは、非常に大きなことだったのではないかと思っています。