変わってゆくものとその経緯について

〇11期の森川さんが、現役メンバーだったころ書いたままお蔵入りしていた記事を寄稿してくれました。執筆された11期本実践終了後当時の雰囲気のままお楽しみください。(編集部)

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DIS52の森川です。

わたしが FLEDGEブログを書く時は、だいたい雨が降っている真夜中で、
なんだかなにも変わらないなぁと思っていても、季節はやっぱり流れていて、梅雨の雨から、いつのまにか台風の雨になっていました。
意識して聴いていると、台風の雨の方がちょっとだけ力強い気がします。

プレ実践へ向けて“どうしよう…”と唸っていた梅雨の季節から、台風の季節へと変わっていく中で、本実践も無事終了し、残すは報告会のみとなりました。

今回のブログは、本実践から今に至るまで…について書こうと思います。

◯どんなワークショップを創ったのか

超訳 桃太郎 「僕たちが共に生きる道」編 即興演劇ワークショップ”。
それが私たちの開催したワークショップのタイトルです。

このタイトルだって、わたしの語彙の中には存在しえず、思いつかないタイトルなので
“FLEDGEというコミュニティで、誰かとチームで創ったワークショップなんだなぁ”としみじみと思うきっかけになっています。

このワークショップでは“だれかとわかりあえない時、わたしたちはどうしたらよいのだろう…?”を問いとして、桃太郎という物語の中で、インプロ(即興劇)を用いながら、学びを喚起しようとしていました。

桃太郎は誰もが知っている物語です。
そして、そこには村の平和を守るため鬼退治にいく桃太郎と村の平和を脅かす鬼、という対立関係が存在します。

けれど、その物語を、わたしたちは桃太郎の視点でしかしりません。
鬼が村を襲った理由をしらないのです。
鬼にだって、なにか村を襲った理由があったのかもしれない。
桃太郎が村を守りたかったように、鬼にも、何か守りたいものがあったのかもしれない。
武力に頼った解決の前に、2人が向き合うことはできなかったのでしょうか。

そして、その構図は私たちの生きる社会にも頻繁に現れます。
“私はこう思っているけど、あの人とはわかりあえない…“
“なんであの人は、こんなことをするんだろう…”
そういった状況に悩むことは、きっとこれから社会へ出るにむけてだんだんと増えていくのではないでしょうか。

桃太郎という物語の中で、誰かになりきるからこそできる体験を通して、
日常に活かせる学びと、これからよりよく働くための学びを持ち帰ってもらえたら…
そう思って、創ったワークショップでした。

なにが成功で、どこからが失敗なのか、
なにが良いワークショップで、どこからが悪いワークショップなのか、
わたしはその判断基準を持ち合わせてはいないのですが、
参加者のみなさんからいただいたアンケートを読みながら、“少なくとも悪いワークショップではなかったんじゃないかな…”と、くすぐったいような気持ちになっています。

◯今まで気づけなかったこと

本実践が近づくにつれ、ミーティングでは、学習目標や創造目標を基に組み立てたプログラムの細部を調整する作業が増えていきます。
実践しては改善するというその繰り返しで少しずつ変わっていくプログラムは、絶妙なバランスで成り立っていました。

けれど、本実践前、参加者だったら…を想定して、プログラムの細部を見つめていた時は、そのバランスをきちんと認識することはできず、本実践が終わってやっと、その構造を知ることができました。

“ワークショップって、ハウル(の動く城)っぽいなぁ。”
本実践後、ふと、そう思いました。中からみたら整ったきれいなものだけれど、外からみるといろいろな素材をくっつけて、いまにも崩れそうに、でも、動いていて、その姿はすごく壮大かつ不思議…その様がわたしには、どこかワークショップのプログラムと一致して見えたのかもしれません。

それと同時に、“だれかとわかりあえない時、わたしたちはどうしたらよいのだろう…?”という問いと、それに対応する学習目標に違和感を覚えました。
プログラムの細部を詰めていく中で、コンセプトを考えた時には、深く考えずにいたことや、プレ実践や本実践を行ってみて、想定していたものとは違うことにたくさん出会い、その問いへの視点が増えたことが大きな要因になったのだと思います。

つまりは、コンセプトデザインの時にはしっくりきていた学習目標がわたしにとっての解ではなくなっていた、ということです。

◯わたしの中のリフレクション

コンセプトデザインの際に設定した学習目標は、“対話的姿勢を学ぶ”というものでした。
学習目標が設定された背景には、“働くうえで、様々な考えを持つ人と関わることになるけれど、その時に、自分とは異なった価値観をわかりあえないときめつけてしまうのではなく、それらの人からどこか分かり合える部分を見つけようとする姿勢があったらいいよね“というチームとしての想いがあり、その姿勢を”対話的姿勢“とわたしたちは呼んでいました。

確かに、対話的姿勢を持つことは大切なことです。けれど、わかりあえない人とわかりあうために必要なことはなにか?と問われれば、いまのわたしなら、最も必要なのは、”自分の感情に寄り添うことだ”と答えると思います。

本実践で想定した背景の前提には、“わかりあえない”は<状況>である…という認識が存在します。詳しく言うならば、いろいろな事情によって、本来わかりあえるはずの人たちが、一時的にわかりあえなくなってしまっているけれど、対話的姿勢によってその状況は改善するはず…そういった認識があるということです。

しかしながら、本実践を終え、“わかりあえない”は<状況>ではなく、<意思>ではないか… 言い換えるならば、“わかりあえない”は心のどこかに存在する”わかりあいたくない”の現れなのではないかと思うようになりました。
もちろん、それぞれ育った環境や経験したことも異なるのだから、自分とは異なった価値観を持つ人は少なからず存在します。けれど、“わかりあえない”と“価値観が違う”は似ているようで全く異なったものです。“価値観が違う”人が存在するのは<状態>ですが、その違いを“わかりあえない”とすることは<意思>ではないでしょうか。

価値観が異なってもその違いをただ認識し、分かり合える部分を見つけずとも、心地よい関係性を築いてきた友人の存在と、分かり合える部分はあるにもかかわらず、この人とはわかりあえない…と感じる知人の顔が思い浮かびます。

では、前者と後者の違いはなんなのだろう…と自分に問うてみると、その答えのシンプルさに驚きます。ただ、単純に“好きか、嫌いか”それだけです。
好きな人は好きで、嫌いな人は嫌い。そこには難しい理屈なんて存在せず、存在するのは、理性では説明できない気持ちなのだと思います。

そして、”嫌いだ”と思っている人と”対話的姿勢”を持ち、わかりあうのはとても難しいことではないでしょうか。”嫌いだ”という感情がある限り、わかりあうことは困難です。

日常生活においては、対話的姿勢を持つことができないならば、嫌いな人は嫌い…で、お互いのために関わらない…という選択をとることも可能です、けれど、”働く”ことにおいて、それはできません。

だからこそ、そういった状況の中で必要なのは、”自分の感情に寄り添うこと”なのではないでしょうか。自分がなぜその人のことが嫌いなのか、それを自分の中でゆっくり考えてみること。その嫌いを構成しているのはなんなのかを分解しようとすること。
もしかすると、その思考の中でなら、“嫌い”という感情は少しずつ消えていくのではないか…そんな予感がしています。

まずは、“嫌い”を整理してみる。それができて初めて、嫌いだったあの人と、”対話的姿勢”で向き合う土壌がつくられます。
他者を理解するためには、自分の感情に寄り添い、自分を理解すること。
遠回りのように見えて、それが誰かとわかりあうための一番近道のように思うのです。