X-MEN 持続可能性の岐路に立つヒーロー

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最近、X-MENを見た。まだまだ先は長いが、ひとまず初期三部作を(といいつつ、書き上げる頃には全部観終わっていた)。感想は「マグニートのヘルメットは、噛めば噛むほど味が出る」に尽きる。クソダサヘルメットも爺さんが好んで被っているんだと思うと、一層激しく萌える。X-MENを、見たことがある人も、そうでない人もいるだろうが、少なくとも今回はストーリーへ深入りすることはない。要点のみを簡単に紹介するつもりだが、詳しくは見てくれ。いいぞぉ。
今期のFLEDGEのテーマはサステナビリティ。X-MENとはサステナビリティのために戦うヒーローだと思ったから、これを書いている。

X-MENの敵

まずは、X-MENの簡単な説明をしよう。
超能力を使える人間が生まれるようになった世界が舞台だ。彼らはミュータントと呼ばれ、社会から白い目で見られている。なぜか。危ないからだ。
火を噴く、ビームを出すミュータントの危なさは言わずもがな、壁を通り抜けるミュータントの前には、金庫なんてあってないようなものだし、テレパシーで心を読んだり、操ることができる能力者すらいるとなると、社会システムの抜本的な見直しが必要となる。というか、人類に防ぐすべなどほとんどない。
そこで、人類は手を打つ。ある時は、ミュータントをデータベースに登録して管理しようとする。あるいは抹殺しようとしたり、ミュータントの超能力を消し去ろうとしたりする。基本的に人類とミュータントはいがみ合っていて、戦争に発展しかねないほどの緊張状態にある。そんな中でX-MENたちは、状況に応じて、ミュータントと戦うこともあれば、人類と戦うこともある。そうやって、世界の平和を守る。おおまかには、こんな話だ。

『X-MEN』『X-MEN 2』と見ながら「これは人種差別や人権問題を背景にしているんだろう」と思った。人類からのミュータントへの迫害は激しく、人権なんてあってないようなものだからだ。しかし、ぼんやりとした違和感もあった。そして、見ていくほどに輪郭は明らかになっていった。

『X-MEN』では、X-MENは自分たちと同じミュータントと戦う。敵であるマグニート一派は、ミュータントの登録制に反対して、法案成立のキーマンとなる人を殺そうと企んでいたからだ。『X-MEN 2』では、X-MENはかつての敵役であるマグニート一派と手を組んでミュータント全てを抹殺しようとする軍人(人類)と戦った。どちらの話にも根強い差別意識や、人権の蹂躙、あるいは人類の行き過ぎた危機感があった。そして、『X-MEN』の初期三部作の最終作となる『X-MEN:ファイナルディシジョン』では、ミュータントから超能力を消し去る治療薬が開発される。『X-MEN』では敵として登場したマグニートはこの薬を開発する研究所を襲い、開発者やその薬の製造の鍵となるものを全て破壊しようとする。そして、X-MENはまたしても、マグニートの敵として対峙する。

ここで違和感の輪郭が朧げに見えてきた。ミュータントから超能力を消し去る治療薬があるのなら、使えばいい。ミュータントは人々から浴びせられる差別や偏見から解放されるだろう。ミュータントの中には、体が明らかに人と異なるような風貌をしている者もいる。例えば全身が真っ青で鱗のような肌をした女性は、一目で人類ではないとわかってしまう。また、触れるだけで人を殺してしまうものもいる。「治る」のなら、万々歳ではないか。

しかし、X-MENをはじめ、多くのミュータントはこれに反対する。意見の詳細をあまり詳しく描写されなかったが「この力は病気ではない」というセリフが印象的だった。もちろん、その通りだ。だが、個性と肯定することもできない。危険な力であることに変わりがないからだ。名もなき端役は「教室の真ん中に銃を放置するようなもの」と言っていた。この危機意識はまっとうなものだと思う。

はたして、紆余曲折を経てX-MENはマグニートと戦うことを決意した。治療薬を守ることを主目的としていたわけではないが、過程で治療薬も守ることになった。彼らは世界に、自らが拒んでいた超能力を消し去る可能性を残したのだ。

X-MENは何と戦っているのだろうか。差別を解消できる手段ならば、あった。しかしそれを拒んだ。ならば、彼らが剣を取り矛先を向ける相手とはなんだろうか。答えは、おそらく未来だ。

ミュータントは人間か?もし人間でないとしたら…

ミュータントは人間から生まれる。ありきたりな人類の男女から、超能力を持ったミュータントが生まれる。遺伝子と放射能が関係しているらしいが詳しいことはわからない。それでも、生まれてくる。親は人間である。しかし、子は?ミュータントとは人間なのか?これは重要な問いかけになる。そして、ミュータントは人間ではないという答えが、世界には蔓延している。

ミュータントたちは被差別意識も相まって、非ミュータントを「人間たち」と呼ぶ。マグニートをはじめとした人間を敵視する集団は、もっと露骨に「ホモ・サピエンスは」と呼び捨て、自分たちを人間から進化した存在だと自らを定義する。また人間たちも同様の態度を見せている。彼らが「ミュータントは」というとき、「日本人は」「黄色人種は」といった様相ではない。もっと排他的な「私たちとは違う」というニュアンスを言外に滲ませる。例えば、『X-MEN』には多くの親子が登場する。幾度となく姿を現す群衆は、だいたいミュータントを迫害するデモを行っている。さながら、猛獣を檻に閉じ込めろと要求しているように見える。少なくとも僕の見た感じでは、ミュータントは自らを人間と一線を引いているし、人間はミュータントを人間と認めていない(少なくともまともな社会の構成員とは)。両者の間にあるのは、差別ではなく種の違いなのではないだろうか。

極論、種が違えば、差別は起こり得ない。差別は人間と人間の間で繰り広げられる。種を跨げば、起こるのは生存競争だ。我々人類が、同じ進化のルーツを辿ったチンパンジーを檻に閉じ込めても許されるように、X-MENにおける人間たちがミュータントをデータベースで登録し徹底的に管理しても許されるし、抹殺してもおそらく人類絶滅を防ぐための自衛という弁が立ち、治療は保護となる。逆もまた然り。ミュータントが人間を劣等種と切り捨て、ネアンデルタール人を駆逐したホモ・サピエンスのように殲滅しても、彼らは後にそれを歴史として高らかに語るだろう。

まさに地獄である。そして地獄は『X-MEN』の世界では現実になった。これを描いた話が第二の三部作の二作目『X-MEN:フューチャー&パスト」だ。見てくれ。

X-MENの視座

さて、X-MENとは実にアンビバレンツな存在だ。ミュータントとも人類とも戦う。どっちつかずの正義の味方の正義はどこにあるのか。前述した通り、未来にだ。

人間とミュータントは、少なくとも二つの未来のシナリオのどちらを歩むか、その選択の岐路に立っている。一つは、地球の覇権を賭けた、生存競争という最悪の未来。もう一つが、差別も小競り合いもあるだろうが、両者が共存したまあまあ良い未来。X-MENは、常に最悪を避け、まあまあ良い方向に舵を切っていけるように、意図したりしなかったりしながら、全体を導いていく。

いかなるサステナビリティでも、未来の在りようを思い描かずに、それを語ることはできない。サステナビリティは、「良い未来にしよう」という漠然としたメッセージではなく、明らかに到来する危機を回避せよという未来からの強烈な要請だからだ。なにかの持続可能性を高めようとするとき、そのなにかへの働きかけがなかった場合はセットで想像される。最悪のシナリオを回避すべく取るアクションこそが、サステナビリティの名を冠する。

LOGAN

『X-MEN』シリーズは、数えて11作品にものぼる。主人公となるキャラクターも時々で変わる。しかし、この『X-MEN」シリーズ全体の主人公といえば、ローガンを置いて他にはいない。『X-MEN』を語って、彼にスポットを当てないのは礼を失しているし、卑怯であろう。

さて、ローガンについては、あえて踏み込んでこなかった。彼はX-MENにおいて特殊なのだ。X-MENの他のメンバーは向いている方向は違えど、未来を見ている。しかし、ローガンはそうでないことが多い。わかりやすいのが第1作の『X-MEN』だ。ミュータントの登録制に反対したマグニートは、強い力を持つ一人のミュータントを犠牲にして人類を抹殺してしまおうとする。X-MENはマグニートを止めるべく立ち上がるが、ローガンは少女を助けるために戦いの舞台に上がる。結果、人類は救われる。このようにローガンには他のメンバーと足並み揃わないところがある。

もう一つ、『X-MEN』シリーズの特に目を引く点をあげたい。それは作品間の因果関係が希薄ということだ。例えば、ある作品で死んだキャラクターが次の作品では何事もなかったように生きて登場する。ある程度共通しているのは、初期三部作のストーリーだけで、その他は作品間の事実関係に齟齬があっても全く気にしない。初期三部作の事実をベースに、その後のストーリーと思える世界があり、それ以前の世界がある。その時々で、X-MENは選択に迫られ、なにがしかの選択をする。運命が別れた一人にサイクロップスがいる。彼はミュータントに目覚めたとき、窮地においやられるが作品によって助けられた人が異なる。『X-MEN:ゼロ』ではローガンに。『X-MEN:アポカリプス』ではチャールズに。そして、彼の歩む道は全く異なってくる。

混乱を招く世界観であることには違いないが、僕はここから一つの意志を読み取りたい。『X-MEN』とは多様な過去、多様な未来を作品群の中に宿し、その上で、今という時間の中で、可能な限り良い未来へと導くために戦うヒーローたちなのだ。

この観点からローガンを見ていくと、ローガンは常に「今」戦っている。彼は人類やミュータントの行く末を考えたり、敵の善悪と自らの正しさをほとんど考えたりすることは、ほとんどない。目の前にある、守るべき誰かのために拳を固めて敵に立ち向かう。

未来が形作られる前に、なすべき今があり、今は過去のなにがしかを背負った現象として成立している。そして、厄介なことに、この今とは生きる全ての我々に与えられている。全て私たちは、私ごととして一切に対して自らに行為を選択させることができる。この営みを無数の人たちが、ありとあらゆる場所で、いまこの瞬間、同時進行今で行なっている。当然、誰かの最高は誰かの最悪と重なり、逆のこともまた発生するだろう。現在は時代年表のような一直線で書き表したり認識したり、導いていけるものではない。未来は、絡み合う今と、絡み合うことすらない今が、複雑に関係し合いながら形成していく。この辟易とするほどの複雑さを丁寧にほぐしながら、最悪の未来と今を繋ぐシナリオを思考し、実践することが、おそらくサステナビリティには必要だろう。

We are X-MEN

X-MENのキャラクターたちは、往往にして個人的な事情で動いている。真にサステナビリティを意識していたのは、チャールズ・エグゼビアただ一人だろう。だが、X-MENの行動は、人類とミュータントの戦争を先延ばしにすることに成功しているのもまた事実だ。そして、これがおそらく限界なんだろう。無限にある思惑の中で、一つの未来を手にしようと思えば、忍耐を要する。分が悪い撤退戦に追い込まれながらも、努力してすがりつくこと。サステナビリティってのは地味で大変だね。

最後に。ローガン役を17年にわたって演じたヒュー・ジャックマンに最大の敬意を。ローガンよ永遠なれ。