「未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう」

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こんにちは、だうにーです。今後の予定はわかりませんが、たぶん僕のコラムは僕のTwitter (@dauny0910)からテーマを引っ張ってくることになると思います。僕は感じたことをそのままTwitterに垂れ流しにするので、日々の疑問などが蓄積しているからです。ただのツイ廃っていうだけなんですけどね。

そして、今回はタイトルにもした「未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう」について書こうと思います。こちらは社会改革ファシリテーターであるボブ・スティルガーさんの震災復興の活動を綴った本になります。この本の出版イベントに先日参加してきて、かなり表面的な部分で思うことがあったので、今回はそれについて書いていきます。

未来とは?

「未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう」という本は、ボブさんが執筆しており、原稿は英語で書かれています。しかし、従来の翻訳本のように完成した本を日本語に翻訳するわけではなく、ボブさんに英語で書いてもらいながら同時並行で編集と翻訳を行った本です。なので、タイトルに関しては出版社側が案を出していますし、本の書き進め方も出版社である英治出版が主導、のはずです。

では、本題に入ります。僕が書きたいのはこの本に関する日本語タイトルと英語タイトルの違いから見えてくる「未来」についてです。

「未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう」の
英訳タイトルは「When we cannot see the future, where do we begin?」です。

タイトルは英語が先に決まったのか、それとも日本語が先に決まったのか、その順番はわかりません。しかし、日本語のタイトルで覆い隠されてしまった意味が、英語タイトルでは現れています。あるいは、英語と日本語の両タイトルを比較することで、ボブさんが語りかけようとしていることが現れてくるのではないかと僕は考えています。

まず、最も目を引く違いは、日本語タイトルでは「僕たちは何を語ればいいのだろう」となっているところが英語タイトルでは「where do we begin?」となっているところです。英語タイトルの方を直訳すれば、「私たちはどこから始めるのか?」となります。一見すると、全く意味が違います。

なぜ、「語る」が「始める」に変わり、「なにを」が「どこから」に変わったのか。これを読み解くカギは、その前文にあると思います。

前文は日本語タイトルでは「未来が見えなくなったとき」、英語タイトルでは「When we cannot see the future」です。こちらは一見すると全く同じことを言っているように見えます。けれど、ここで注目して頂きたいのが日本語タイトルの「未来」と英語タイトルの「the future」の違いです。まず、未来がなにを指しているのか明らかにしたいと思います。

「the future」とは、「the」という定冠詞がついているので、「ただの未来」ではなく「決まった未来」くらいの意味合いになります。もう少しニュアンスに踏み込めば、「前提として共有されている未来」までは踏み込めると思います。

そして、この「決まった未来」に関連した話を、ボブさんが出版イベントで語っていました。

 これからの日本は成功の定義が変わる。今まではいい会社に勤めて、よりたくさんの給料をもらえれば成功とされてきた。けれど、それが震災で崩れた。人々が「自分の人生はこれでいいのか?」ということを問い始めた。みんなが信じてきた成功像が崩れたんだ

ということを語っていました。細部は少し違うと思いますが、大意はこうだったと思います。

成功の定義とは、「こう」なりたい、「こう」なれば幸せ、の「こう」の部分です。「こう」は自分の目指す先で、今がよりよくなった先です。つまり、ぼんやりと自分が「在りたい」と願う姿です。だから、「こう」に近づけば成功になり、「こう」から遠ざかれば失敗になります。

また、成功像とは「こうなりたい」「こうなれば幸せ」という未来形で語られますから、ある人が望んでいる未来と言い換えることもできます。

そして、ボブさんが語っていた今までの日本の成功の定義は「いい会社に勤める」「より多くの給料をもらう」という物質的側面です。ボブさんが批判的な眼差しを向けているのは、物質的な成功を個人が求めていることではなく、日本人全体の成功の定義になっていることです。

つまり、ある人とっては、その成功像こそが人生の目標であるということはあるかもしれません。しかし、他の人にとっては「いい会社に勤める」「給料をたくさん貰う」ということは成功とは言えない。このように一人一人の成功像は異なっているのが自然です。それなのに、日本では同じ成功像が暗黙のうちに多くの人に共有されてしまっていた、ということです。

すると、日本では、一人一人が自分自身の未来を追いかけているようで、みんなが同じ未来を求めていたことになります。あるいは、深く自分の「在りたい姿=未来」を考えることなく、みんなが在りたいと考えている姿を自分の在りたい姿として無批判に受け入れてしまっていたのかもしれません。

この、暗黙のうちに多くの人に前提されている未来像こそが「the future=決まった未来」ではないでしょうか。暗黙のうちに「こうなれば幸せ」「こう在りたい」、と思われて誰も問い直されてこなかった未来像。それが「the future」ではないでしょうか。

みんなが同じ未来を思い描いて、追いかけている状態はとても安心できます。自分が何をするべきかが、いつでも明らかになっているからです。「より多くのお金を得るべき」という自分像をみんなで思い描いて、それを無批判に受けて入れているのなら、何も考えずによりたくさんのお金を稼げばいいのです。家族と過ごす時間が自分にとっては本当の幸せだとしても、その時間を削って、身体を壊してでも働いて、そしてより多くのお金を手に入れている、その状態に身を置きさえすればよくて、自分の身体をその状況に置くという選択ができます。あるいは選択すら必要なくなります。

そして、「未来が見えなくなったとき」の未来とは、この「the future」=「みんなが暗黙のうちに了解していた未来」が見えなくなったときといえます。漠然と共有された一般論的な成功、そこから逆算されたルート、そして今私はなにをするべきか?それが見えなくなった状況です。

恐怖と自由

この地点から「僕たちは何を語ればいいのだろう」と「where do we begin?」を眺めたときに、新しい意味が見えてきます。

みんなと同じ未来(=the future)が見えなくなったとき、それは「the」 futureが機能しなくなったときです。給料をたくさん貰うのも、高価なものをたくさん手に入れるのも、絶対的な成功ではなくひとつの成功像に過ぎないと認識された瞬間です。そのとき人は、別の成功像の可能性を感じることができます。つまり「ある絶対の未来」から「あるひとつの未来」へと未来への捉え方の転換が起こります。「the」 futureから「a」 futureへと認識が変わるのです。

たったひとつしかないものには選択と模索の余地はありません。それを選ぶしかなく、それをどのように手に入れるか、だけが思考されます。しかし、選択肢として目の前に現れた瞬間、あるものと他のものどちらを選ぶか、そしてそれはなぜ選ぶのか、これが問われることになります。つまり、自己自身との対話が始まります。

これは未来に関しても同じはずです。「これしかない」と思う未来から「これもこれもありだな」と思える未来たちに変わったときに、選択と模索が始まります。

この未来に対する認識の転換点において(=when we cannot see the future)、
どこから(=where)なら新しい未来を見出し、動き出すことができるか?
そしてその時に口を出るのはどんな言葉か?
それが本書の『問い』だと思います。これを、本書では読者に投げかけているのだと思います。

ボブさんはこうも語ります。

固定化した成功像が崩壊したとき、人はふたつの内どちらかの状態に陥る。それは「恐怖」か「自由」だ

未来の転換点において、新しい未来を見出し、動き出す方向は、新しい「固定化された未来」であってはいけない。未来の転換点において、口を出るのが「次は誰に従うか」ではいけない。自己自身に立ち返り、自由と共に歩まなければいけない。

本書のタイトルは、そういったメッセージを読者に投げかけるものだと思います。

これが、僕がこの本のタイトルからと出版イベントのボブの話から感じたことです。

場の力

固定観念と言い表されることが多いですが、どんなことでも定まった成功像というものはあります。そして、それが心から好きな場合は問題ないかもしれません。けれど、それ以外の未来があると認識できていない人がいたとしたら、その状態を切り開くのがダイアログや場の力だと思います。

なので、固定化されたものとは違う可能性を見せていく、それがワークショップ・ダイアログ・あるいは場の力なのではないかなと、ボブと出会って思いました。

この本に興味が湧いたら買ってもいいし(ボブは買ってねって言っていた)、僕に声をかけてくれれば貸しますので、まぁお声掛けください。

それでは!

だうに