こんにちは。ディレクターのへるめです。
「コラム」では、「働く」「創造」「学習」「ワークショップ」などのテーマに引きつけて少しアカデミックな感じで各々が日常生活で感じたことを発信していきたいと思います。今日は、協同的な創造や学習において不可欠といってもいい「対話」について考えたことをお伝えできればなと思います。
あなたが関心がある「対話」はどんな対話ですか?
最初は、考える経緯となった身の上話から始めたいとおもいます。僕は、現在、社会人なのですが、「何の仕事しているの?」と聞かれると非常に答えづらい立場にいます。普段やっていることとしては、新卒者の組織適応に関するリサーチと複数の媒体での記事執筆が仕事なので、職業名ですと「リサーチャー」と「ライター」という感じです。ただ、ときおり、ワークショップをつくったり運営したり、毎週日曜日にはインターネットテレビ番組のパーソナリティをやっていたりするので、それらをすべて一言でまとめて表現するのがちょっと難しいのです。一応、パッと答えるときは「フリーのライター」で通しています。
また、日頃、働きながらも、自分が「ここで文章書きたいなぁ」と思った媒体の求人情報があれば、応募して、面接を受けたりもしています。「就職」するわけではないし、「営業」しているわけでもなく、「職務」を求める方の「求職活動」ですね。その活動の中で様々な面接担当の方に会って、いろいろ質問をされるのですが、先日は、学生時代の研究内容について聞かれました。ちなみに、僕は、学問的にも、ライフワーク的にも「対話」に関心を持っているので「「対話」に関心があります。」と答えました。ただ、そのときは面接担当の方に続けて「中岡さんが関心のある対話はどんなものですか?」と聞かれ、うまく答えられませんでした。自分の関心事なのに。ということで、今日は、この悔しさと不甲斐なさをバネに自分の対話観を言語化し、整理してみたいと思います。
2つの軸と4つの差異
そもそも「対話とは何か?」というところには諸説あると思いますが、それらを参考にしつつも「対話」を「他者との間での差異を前提した言語的コミュニケーション」と定義しておきたいと思います。『他者との間』としましたが、『自己との対話』もありますし、言語を介さない『動物や非有機物や神との対話』もあります。ただ、ここでは「他者」に限定しておきたいと思います。また、「差異の”解消”を目的とした対話」や「創造的な現象を目指した対話」もあるかと思います、ですが、ここでは対話に目的を持たせず、ただ「”言語”を使った対話」というところに限定しておきたいと思います。
というところで早速自分の「対話観」を探っていきたいのですが、ここでは「差異」に注目したいと思います。なぜなら「差異」をどう捉えるか、という「差異」の解釈によって、イメージされる対話がまるで変わってくると思うからです。「差異」と一言で言っても様々な差異があります。その差異を整理しながら、自分の対話観を探りたいと思います。
まず、「差異」を整理するにあたって、ここでは、「パラダイム論的」という軸と「存在論的」という軸を用意してみました。
パラダイム論的差異
「パラダイム」というのはアメリカの科学哲学者トマス・クーンが刷新した概念で、日本では一般的に「価値観」という言葉に代替される概念となります。詳細に語ることはここでは適していないで、「パラダイム」は「考えや判断を支えている暗黙の価値体系」ぐらいに理解してください。もっと詳しくこの概念について知りたい人はこれらの文献がおすすめです→「パラダイムとは何か クーンの科学史革命」野家啓一 著 や 「理解とは何か?」佐伯 胖 著・編集
では、整理していきたいですが、“パラダイム論という軸での差異”は何か?というと、これは「互いに持っている価値体系の相違から差異が現出または感じている違和感」のことです。当たり前ですが、自分と同じ価値体系の人は誰一人いません。また、同じ言語や言葉を使っていても使い方も違います。根底的に一致することはありません。
ただ、経営学や教育学という学問領域であったり、ある村とある都会であったり、ある会社とある研究室であったり、で言葉の使い方が似ている、というか、他の領域からはよくわからないけど同じ領域だとわかりあえる通じる言葉ってありますよね。これを「領域固有性」というのですが、それぞれのコミュニティには統一された意味で言葉を使って意味を通じ合わせるような言語体系が備わっていて、それは他領域と共有可能性を持っていない、というような意味です。すっごく適当な解釈をしますと、北海道や北陸、東北生まれの人の「大雪」と東京や九州に住む人の「大雪」の意味は違うわけで、ある降雪を見て「大雪だ!」と言うか「今日も少し降ったなぁ」というかは、各々の所属する文化や価値体系、言語体系によって異なるというわけです。
ワークショップにおいてだと、「パラダイム論的に差異」というのは、同じこと、同じテーマ、同じ問題について話し合っているのになぜか通じ合わなかったり、お互いに言っていることがよくわからなかったりするときに感じている“ズレ”のことを指したいと思います。互いのパラダイムが違うので、同じ日本語を使っていても、同じ単語を使っていて、同じテーマについて話し合っているのに“意味”が通じ合わないのです。このズレを「(対話における)パラダイム論的差異」とここでは言いたいと思います。
存在論的差異
「存在論」というのは、難しそうに聞こえますが、「それが“在る”ということ全般について語ること」と言っていいでしょう。「それが他でもなく、それとして在るのはなぜか?」「それはどう“在る”のか?」となどなど。「それってどんな存在なのかってことを概念を使って解明していくこと」が存在論というものです。
では、ここで「存在論的差異」というのは何か、というと、そもそもの“在る”が“ズレ”ている、ということです。まだよくわからないですね。例えを出します。
例えば、会社の上司に突然「行ってこい」と言われて、彼氏とのデートがあったのにもかかわらず、あまりよくわからないし関心も持てないテーマの交流会に参加されている綺麗な女性がいるとします。交流会の中では、彼女に対して、たくさんの男性が話しかけにいきますが、滅多なことがない限りそこに対話は生まれないわけです。なぜなら、そもそもの“在る”が“ズレ”ているからです。彼女はそもそも交流をしたくもないし、テーマについて関心があるわけでもない。自分がそこに“在る”という前提が他の人々とまるで違っていながらも同じように存在しているのです。ただ、もしかすると、この女性が部屋の隅の方でちびちびとドリンクを飲んでいるところに、同じような境遇で来ていて、部屋の中心の方には居づらくて隅の方にきた偶然近くにいた男性とは仲良くなるかもしれません。そして、それは、「存在論的な差異」がなく、存在の仕方の大部分が一致している可能性があるからです。
つまり、僕がここで示したい「存在論的差異」というのは何を話していても、どこかズレてしまう二人の間にある存在の仕方のズレのことです。このズレを「(対話における)存在論的な差異」とここではいいたいと思います。
2つの軸で整理すると
それでは、以上の「パラダイム論的」と「存在論的」という二つの軸で差異を整理してみます。
となると、「差異」というのには4つの種類に分かれます。
①はパラダイム論的差異も存在論的差異もない状態です。もちろん細かくみると、性別が違ったり、個人の歴史が違いますので、パラダイムは異なりますが、そもそものズレというのはあまり見受けられないわけです。構成メンバーが真面目に参加している組織のミーティングとかを想像してもらえばいいと思います。
②は、パラダイム論的差異はあるけど、存在論的差異はない、という状態ですね。これは、異なる領域・分野の方との共創状態やディスカッションを考えてもらえればいいと思います。ちょっと最初は相手の言っていることがよくわからない、という状態があるかもしれませんが、途中で意味が通ってくるとだんだんとおもしろくなっていく場面を想像してもらえればいいかと思います。異分野交流会や何か抽象的なコンセプトのある話し合いのイベントなどが当たりますかね。
次に③です。パラダイム論的差異はないけど、存在論的差異があるときですね。これはどういう状況かというと、いつも顔を合わせている同僚や友人がなんか、今日は話していても、かみ合わってはいるんだけど、何か様子がおかしい。話はズレてはいないんだけど、なぜか盛り上がっていかない。なんだか、一緒に居れるんだけど、居づらいという場面を想像してくれれば、いいかと思います。それはどのような背景があるのか、わかりませんが、なんらか、の存在論的差異が生じているのかもしれません。これがパートナーとの間の話になりますと、なにか今日は相手の様子がおかしい。なんだか変だ、と思っているうちに、突然「別れよう」と言われたりするわけですね。存在論的にズレていたわけです。悲しいですが、事実ですね。
そして、④です。これは、大変です。ズレッズレです。パラダイム論的差異もあって、存在論的差異もあるわけです。もう、なんの因果か居合わせてしまった他人同士ですね。日本語という使用言語という前提すらもズレていると大変なことですね。でも、映画のSFとかでありそうですね。ただ、現実でも必ず生起しているはずです。まぁ、原理的には、すべてのコミュニケーション場面がこの両方の差異から逃れることなんてないわけです。書いていて思いましたが、あるか、ないか、ではっきり区切ることはできませんね。わたしたちは、差異が「0」に到達することのないグラデーションの中を「0」の方に向かって行って、そして、ある地点で、その差異を差異のままにしておく、という過程が「対話」なのではないかと思います(ここ急激に置いてかれる感覚に陥る)。まぁ、そういっては、おじゃんになってしまうので、なんとか、この話は一旦区切るべく、④の説明に戻りますが、おそらく、あまりにも流されて生きていたり、自分自身の関心が曖昧なのに、人と出会うことが多い生活をしている人ほど遭遇している場面が④かもしれませんね。“遭遇”というか、その人自身がその場面を引き起こしている一因ですが、ね。下手したら、実は、そもそも誰かと話したくないということすらありうる場面です。半端ないですね。
僕はどの差異を前提とした対話に関心があるんだろう?
ということで、以上の4つに差異に細分化したときに、僕自身がどの差異を前提とした対話に関心があるのだろう?と考えてみるわけです。そう考えるとですね、ぶっちゃけ、全部好きですね笑。ズレがない、と思っている状態から差異を顕在化していく過程が大好きな僕としては、だいたい全部好きですね笑 これじゃ、ダメですね、話になんないですね笑。なので、焦点化してみていきたいと思います。
まず、①の場面は普通に楽しそうですね。本当にプライベートも相談し合える友人、仲間、同僚、組織での協同活動の楽しさとかこれでしょうね。あとは、④はいいですね。差異ありまくりだし、何がズレているのかの予想もつかないという状況!やばい!あえて、この言葉を使えと言われたら、ここでこそ「コミュニケーション能力」が問われると思います。あと、③も半端ないですね。この場面への関わり方を全然わからない人、割といるんじゃないですか?この場面で肝なのは、ズレがないように見えて、実はあるってところですね。④より驚きと反動が多い分楽しいですね。でも、パートナーとの間だと喧嘩になったり、その後、うまくコミュニケーションできないと、ストーカーになっちゃいそうですね。心配な人は訓練しましょう!で、②の場面は。この場面で必要なのは割との認知的な作業のみだと思うので、ここは認知科学とか異文化コミュニケーションの領域でかなり話し合われてそうですね。ただ、みんなやっている感じあるので、ちょっと僕はいいかな?と思っちゃいますね。
そう考えると対話の場面の興味度合いの順番は、
③←④←①←②
という感じですね。
たぶん、プログラムもファシリテーションも自己紹介もなく、時間と空間だけが決めらている中で10数名がその時空を共にするワークショップとして、非構成エンカウンターグループというものがありますが、これがくっそ面白いのは、④から始まって、パラダイム度数は減少を続けながらも、③に全体の意識と状態が揺れ続けまくる、というくそカオスな状況が際限なく起こっていく感じが最高ですよね。
「対話」の観点でワークショップデザインを考えてみる
ということで、足早に語ってまいりましたが、ここはFLEDGEなので、今回考えたことから、ワークショップデザインというものを考えて終わりにしたいと思います。なんかアクロバティックな展開ですが、行ってみたいと思います。
基本的にワークショップというのは、②の状況が想定されている運営されるかと思います。だいたいの人が掲げられたテーマに関心があって訪れています。なので、パラダイム論的差異はありますが存在論的差異はないという想定で課題が設定され、その課題に対してパラダイムがズレていても協同的に関われるようにデザインします。ですが、おもしろいのは、実は、テーマや課題に関心があるわけではなくて、主催者や開催場所、またはワークショップという場そのものへの関心が動機になって来ている人がいるということです。または、そのイベントに自分の気になる女の子が参加ボタンを押していたから行くことにした、という方がいる可能性もあります。もちろん複数の要因がかかっていることも考えられます。こうなってくると、一つのグループで、ある人はとてもテーマに関心があって、さらにグループ課題にも関心があってめっちゃ前のめりなのに、同じグループのある人は、自分の動機となっていた女の子が違うテーブルに行っちゃった、という状況もあるわけです。さらに、トイレに行きたくなってきたけど、行っていいかわからない。部屋が暑すぎて、全然コミュニケーションに集中できない、ということなどなどあるわけです。もうなんでもあるんです。じゃあ、どうすればいいのか?
ここでは、「ワークショップデザイン」について語っていますが、「プログラムデザイン」だけがワークショップデザインではありません。導入のファシリテーション方法はもちろん、「応募方法」「広報のタイミング」などもデザインの視野に入ってくるでしょう。そこにも制約をかけていくのです。それは、参加者の「動機」のデザインと言えるでしょう。心理学の分野では、このような学習活動に対しての適切な準備が整っている心理・身体状態を「レディネス(学習準備状態)」と読んでいます。FLEDGEでは、プログラムデザインを中心に学んでいますが、このようなレディネスのデザインの観点も重要かと思います。ワークショップが始まる直前に、できるだけ、参加者にどのような状態になっていてほしいのか、そのような観点で考えて、デザインすることもワークショップデザインと言えるでしょう。
また、もう一つ、「ワークショップをデザインする」という活動それ自体についても考えておきたいと思います。
僕の感覚から言うと「本質的な学習」というのは、「パラダイム論的差異」よりもむしろ、「存在論的差異」を巡ったコミュニケーションから生起すると思います。FLEDGE11期のみなさんが現在やっているワークショップをデザインする「対話」は、あえて、言うなら、①から④のどのような状況と言えるでしょうか?
「だんだん言っていることはわかってきたんだけど、なんだか、うまく盛り上がらないMTGが続いている」なら、もしかすると、存在論的な観点で対話を見直すとうまくいくかもしれません。お互いの存在論的な問いに対しての答えがズレていることがあるかもしれません。
「実は「働く」について関心がなくて、ワークショップに興味があるだけでした。」
「実は安斎さんに会いたいだけでした。」
「参加しているだけで就職活動に有利だと思ったから」などなど、
各々が各々の動機で参加することは全く問題ありませんが、「チームで「働く」についてのワークショップをデザインする」という課題は共通ですし、自分の動機が達成されたかといって課題が無くなるわけではありません。存在論的な”差異”を含みこみながら対話して、様々な観点で自分たちの対話を見直す連続の中で、よりよい創造状態へ変態していってみてくれればと思います。
ということで、とっても長くなりましたが、11期ディレクターのへるめの「対話」についてのコラム終わりです。まじ書きすぎましたが、今後、ディレクターがさらっと読みやすくて深みと学びのある記事を書いてくれると思いますので、みなさん期待していてくださいね!
それでは。また、第4回勉強会で会いましょう!
へるめ