対話とはなにか−思想的に捉え直してみる−

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※4期のへるめさんが寄稿してくださいました。へるめさん、ありがとうございます。

対話とはなにか。

この問いがどれだけ問われる必要があるか、ということについてわざわざ語りはしない。また、当たり前のことだが、定義は細分化した学問領域によって異なってくる。哲学的な実践においてはその定義は認識(知るということ)を巡ったものとなるだろうし、臨床心理学的実践においては、個人の心理的な治癒を目指して位置付けられ、定義されるだろうし、認知科学においては、創発や理解を巡って語れるだろう。つまり、対話とはなにか? という定義の問題は、それを問う者が位置している実践状況に依存している。 このような実践状況を踏まえない定義の議論は不毛だろう。そして、そうであるならば、あらゆる領域を架橋しつつ共通解を探るような方法で向かっていくという問い方も想定できるだろう。何が「真理」なのかについて、あらかじめ客観 的な事実や答えがあると考えずに、一人ひとり何を「真理」と考えるか、みなバラバラであり、そうであるにもかかわらず、そこになんらかの深い共通項があるとしたらそれはどのようなものだろうか。このような「本質観取」と呼ばれる現象学の問い方(方法)を採用してもいいだろう。 ただ、わたしにとって――2016年を生きるわたしたちにとって――重要なのは、現代の思想的状況において「対話」という言葉がどのような意味を抱えているか、というところだと思う。

思想としての対話

ふつういう狭い意味での思想史的研究の対象となるのは、名前の知られた特定の個人に帰せられる思想がどのような広大な背景をせおって、はじめて生起したのか、というところである。 例えば、ソクラテスという哲学者は、「産婆術」と呼ばれる対話を実践した者としてよく知られる。話し合いにおいて、優れている者の方が無知を装い、相手が智者であるかのごとく問い質していくことで自分の無知に気づかせていく。そうして、相手自身の中で眠っており、まだ生まれていない知識を呼び起こしたり、無知の自覚を通して、本当の智者(ソクラテス)から教えられたいという欲求を引き起こしていく。これが産婆術と呼ばれる対話である。これも対話の場をデザインしていく一つの手法と言えよう。あるファシリテーターは、ワークショップの初期の段階で、このような手法によって、自身を場における智者と位置づけさせ、ファシリテーションを進めていく者もいる。 ただ一方で、このような手法には批判がある。「対話の芸術」という書を著している思想家エーベルハルト・ミュラーは、この手法を「教育的対話」として位置づけ、その限界を指摘する。彼曰く、この手法は、何らかの教育的内容を学ぶ者に伝達し、理解させることが目的であり、それは、子どもたちや、まだ自立した考えを持っていない人々に対しては有効であるが、そこでは、本当の意味での対話が起きていないというのだ。というのも、この手法では、すでに自立した考えをもつようになった人間、そうなろうと願っている人々に対して試みるやいなや、全く役に立たないからである。つまり、教育的対話の限界は、ほんとうの問いは提出されず、見せかけの問いが提出されているにすぎない、ということにある。そう言うのである。これはあながち間違っていないだろう。 しかし、である。これは、先にわたしが言った領域の違う者同士の不毛なやりとりではないだろうか。エーベルハルト・ミュラーのいう「本当の意味での対話」というのは、それは彼の位置において“本当”であるにすぎない。これでは、不毛な議論が続くだけではないだろうか。重要なのは、ソクラテスの産婆術が、その時代、その位置において、つまり、どのような具体的な実践状況の中で生まれた「対話」なのか、ということである。

ソクラテスの産婆術の意義

言わずもがな、古代ギリシャ哲学、プラトン、アリストテレスと続く哲学史においてソクラテスは極めて重要な役割を負っていた。諸説あるだろうが、ソクラテスはこの時代において極めて論理的な思考を展開した。「哲学は常に反時代的でなければならない」と言ったのはニーチェだが、この意味において、ソクラテスは「哲学」者であった。ソクラテスの生きた時代(それ以降、現代においてもだが)、あらゆる自然現象(天気の移り変わりや地震、海底火山の噴火や大津波など)は神話によって説明されていた。人は、不条理なことが起きるとなぜ、このようなことになったのか、と説明を求める。今では、地震学や気象学など科学的発展によって、ある程度説明が可能になってきたが、この時代は、さっぱり論理的に説明することができなかった。そこで持ち出されたのが、神話である。「人々の営みを見ていたどこどこにいる◯◯という神さまがついに怒って、大津波を起こしたのだ」とか、そのような神話というコミュニケーション様式によって、人々は自然現象を理解していた。その時代、神話を語る者としての詩人は、時に讃えられ、人々の不条理に対する鬱屈を説きほぐしていた。このような世界観で生きている世界を想像してみてほしい。そこで、ソクラテスの登場である。ソクラテスは自らを愚者として装い、神話によって自然現象を説明する智者に問う。「あなたのいう◯◯という神さまはどんな姿をしているのですか?」「その神さまのいるというどこどこはどこにあるのですか? あなたは実際に見たことがあるのですか?」「どこどこも見たこともなく、◯◯という神にあったこともないとのことですが、本当にその神がいて、本当にその神がこの大津波を起こしたのでしょうか?」etc..このようにして、ソクラテスは徹底的に問うた。そうして、実際の経験や事実をベースにして、論理的に思考する、というスタイルが思想として生まれていった。 その後、プラトン、アリストテレスはこのスタイル(哲学)によって自然を解明することをはじめた。ときは下って、近代(17世紀)を経て、それは科学的思考として定着していく。科学(及び科学者)が生まれたのはこのときからであり、ガリレオ・ガリレイやニュートンらはその時代はまだ、自然哲学者(自然現象について哲学する者)と呼ばれている。 話を戻すが、詩人を警戒したソクラテスの弟子プラトンはこの後、詩人の追放を行うこととなる。ギリシア哲学は徹底してその時代に“当たり前”とされたコミュニケーションの様式を排除し、一方で、自身の思想(論理的な思考)を体現するコミュニケーション様式を「対話」と呼んだのだ。産婆術はその時代の思想の体現態の一つと言える。

対話は定義しうるのか?

さて、本題に戻る。わたしたちのいう「対話」とは、おのおのの実践状況においてさまざまな定義をされる。そして、おのおのが自身の思う対話を理想的なコミュニケーション様式として語る。しかし、その「対話」は、ソクラテスのいう「対話」(のちに批判されるコミュニケーション様式)と本当に違うのだろうか。その「対話」は、エーベルハルト・ミュラーのいうように「本当の意味での対話」なのだろうか。それはただただ、この時代において支配的なコミュニケーション(ソクラテスが徹底して排除した神話的様式のような)を否定し、理想化している様式なだけなのではないだろうか。いずれ、時代が変われば、ソクラテスの対話のように批判を受けるのではないだろうか。 このような立場(時代的相対主義とでいえばいいのだろうか)に立って考えると、どれが本当の対話であり、どれが本当の対話ではない、ということではなくなる。対話の定義の散漫は、ただ時代時代のある特定の場所において、要請されたコミュニケーション様式が「対話」という同じ言葉で語られてしまった結果であり、あえて、総じて語るならば、「対話」とは一つの思想的共同体において理想化されたコミュニケーション様式であり、一つの理念とも言える。「対話」は、その「対話」を語る者が位置付く社会思想によってその内実を変えている。 しかし、そうならば「対話の定義」をめぐる問題はもはや問題ではないのではなかろうか。「対話とはなにか」という問いなど、問いとして全く意味を持たないのではないだろうか。この疑念はどうも捨てきれない。やはり、現象学なのかもしれない。 ただ、わたしにとっては、現代の思想的状況において「対話」という言葉がどのような意味を抱えているか、というところは気になってしまう。どうせここで語っても、この「対話」は後の時代で批判されるかもしれない。しかしながら、それでも、やはり語っておきたい。ということで、以下、わたしにとっての暫定的な対話を語って、本論を締めようと思う。

現代の「対話」

まず、現代社会に生きるわたしたちは、テクノロジーという「発展の形而上学」の元で運動する無限の力の影響下にある。と同時に、この力を過剰に受けてしまったときの非人間的な状態を避けようとする内なる力(生存の力)の元で、立ち止まることや一見無意味なことをも希求している。ここで、どちらかの力を否定し、どちらかの力を肯定することはできない。両方の力があるのはただ事実であり、肯定も否定もできない。そして、また、この状況において、自分一人だけではなく、同じようにあり、それでいて全く異なる他者とともにもある。このような、非人間的になることを避けつつ、異なる他者とともに前進していかなければならない、という具体的な状況にわたしたちは置かれている。もちろん、これは、これまでなかった、ということではない。テクノロジーの発展があるなしにかかわらず、異なる他者とどう生きていくべきか、という前進の問題は人類が常に抱えていた普遍的な問題であろう。ただ、テクノロジーの発展がある現代、あるとき、過剰の速度をも求められている現代においては、この問題が前景化してきているのだろう。そして、このような思想的状況において、要請されている方法の一つが「対話」である。 このような前提を踏まえた上で、わたしは、現代の「対話」に含まれている意味は大きく二つであると考える。一つは、ある共同体の課題の発見および解決の方法であること、である。テクノロジーの発展によって認識可能になった膨大な社会課題をテクノロジーによって解決していくこと、この実践の土壌となるコミュニケーション様式であることが現代の対話の意味であり、ある話し合いを「対話」と呼びうるに至る一つ目の条件である。もう一つは、その話し合いの過程自体が異なる他者とともに人間的であること、である。テクノロジーの発展により、過剰な速度での問題の発見と解決を求められた際に発生してしまいがち非人間的な状態を避けたコミュニケーション様式であること。それも自分だけが人間的であるだけでなく、ともに話し合う他者にとっても人間的でなければならない。これが二つ目の現代の対話の条件である。 わたしが思うに、現代において、ある話し合いが「対話」と呼ばれうるには、この二つの条件を満たしていなければならないのではないだろうか。そして、この二つを満たしたコミュニケーション様式が現代において希求され、語られている「対話」の正体なのではないだろうか。

 

※参考文献

竹田青嗣, 西研 「『本質観取』とは何か」

・中村雄二郎ほか 「思想史 第三版」

・エーベルハルト・ミュラー 「対話の芸術 話し合いの方法と実際」