二日前にアップした前編で私は、ワークショップデザイナーの一番大きな責任は、「問う価値のある問い(すなわち学習目標)を用意し、参加者と一緒にその問いについて探求できる場をつくることではないか」と書いた。私にとっては、「価値のある問いをファシリテーターと参加者がともに探求しているワークショップ」こそが、良いワークショップなのだ、と。
それでは「参加者にとって問う価値のある問い」とはどんな問いなのだろうか。これも人の数だけ違った考え方があるだろう。なので、「問う価値がある問い」とっても、あくまで「私がこういう問いだったら、自分も探求したいし、おそらく多くの人も探求したいと感じてくれるのではないかと思える問い」でしかない。具体的な体験に基づくわけでも、学術的な根拠があるわけでもない。このコラムも、正しいか間違いかは実際にはわからないが「今のところこれが正しいのではないかと思いながら実践しようと思っています」という宣言であり、一方で「どう思いますか?」という問いかけでもある。どうかご笑覧ください。
ともあれ、今回はそうした「自分とより多くの他者がワークショップを通してより深く探求したくなる問いとはどんな問いか?」という点についていくつか問いを比較しながら確かめていこうと思う。たとえば、
・イシカワガエルはなぜ絶滅しそうになっているのか?
・私はなぜ死ぬのか?
この2つの問いを比べてみる。ワークショップを通してより深く考えたいと思える魅力的な問いはどちらだろうか。「『イシカワガエルはなぜ絶滅しそうになっているかを考えるワークショップ』と『私はなぜ死ぬのかを考えるワークショップ』、どちらに参加したいと思えるか」と言い換えてもいい。
後者だなぁ、と思う。なぜなら、私はイシカワガエルをよく知らないからだ。いま例に出すために「絶滅危惧種」で検索して初めて知った。日本で一番美しいカエルと言われてるらしい。「イシカワガエルはなぜ絶滅しそうになっているのか?」という問いはイシカワガエルによほど強い思い入れがない限り、考えるに値しない、つまらない問いだと思われるだろう。この問題について一生懸命取り組んでいる人には悪いけれど、私にとってはイシカワガエルの絶滅に正直あまり興味を持てない。自分よりも知識や熱意のある学者などに任せておけばいいような気がする。
それに対して後者の問いはちょっとだけ興味がある。「その問いについて考えたい」と思う。なぜなら人は必ず死ぬからであり、私もまず確実に死ぬからだ。だけど、それにも関わらず、私は「死」についてあまりにも知らない。これから直面するものについてよく知りたいと思うのは自然のことのように思える。私だけでなく、多くの人にとってもそうなのではないだろうか。
さらに検証を続ける。
・私はなぜ死ぬのか?
・仮に私が死んでしまったとして、家族はいかにその悲しみを乗り越えたら良いのか?
この2つの問いを比べた場合はどうだろう。こちらでも後者の問いの方がより深く考えたい魅力的な問いに思える。先ほどの「親近感」に加えて、「何かしら役に立ちそうだから」というのが、私が後者の問いをより強く魅力的に感じた理由だ。「私はなぜ死ぬのか?」という問いは、興味こそそそられるが、わかったところでどうせ死ぬならあまり役に立つとはいえない。だけど、後者の問いでは、この問いについて考え、解決とまではいかないものの乗り越え方に関して有効なヒントのようなものを見出し家族に伝えられれば、それはとても有意義な経験となるのではないだろうか。
「私はなぜ死ぬのかを考えるワークショップ」と「仮に私が死んでしまったとして、家族はいかにその悲しみを乗り越えたら良いのかを考えるワークショップ」が2つあったとして、どちらに参加したいかといえば、多くの人にとって、後者なのではないか(「リアリティがありすぎてつらい」や「悲しくなるから考えたくない」という理由で参加を敬遠される可能性はあるにしろ)。少なくとも、私にとってはそうだなぁと思う。
もちろん、どんな参加者が集まるかによって、どんな問いがその場にとって魅力的であり、ふさわしいかも変わってくる。絶滅危惧種の保護を使命とする人を対象としたワークショップであれば、「イシカワガエルはなぜ絶滅しそうになっているのか?」という問いでもものすごく興味を持ってもらえるかもしれない。参加者の属性が限定される場合、その属性に合わせた問いの設定というのも、ワークショップデザインにおいて重要な要素となりうる。
ここまでで、問いが魅力的であるかどうかには、「親近感があること」と「役に立つこと」という2点が関わっているのかもしれない、ということが見えてきた。問いの比較はここまでにするが、もっとたくさんの問いを一つずつ比べてみれば、より多くの要素が見いだせるだろう。問いをつくっては比較することを繰り返していけば、そのうち「ワークショップとしてみんなで一緒に探求したいと思えるだけの魅力的な問い」が見つかるかもしれない。もちろんここでいう「みんな」のなかには、ファシリテーター自身も含まれる。ワークショップの定義のひとつとして、「ワークショップには先生がいない」という条項が挙げれているのを本などでよくみかけるが、きっとそうあるべきなのだろうと私も思う。ファシリテーターは先生ではない。参加者とファシリテーターは、場をつくった人とそうでない人という差こそあれ、興味深いひとつの問いに向き合うという意味では対等である。そしてその問いの探求に取り憑かれたファシリテーターと参加者の協働の結果として、何が起こるか誰にもわからない、さらにラディカルで実験的で楽しい学びの場がつくられていくのだろう。
これは妄想だけど、「みんなと一緒に考えてみたい問いがある」という理由でもっとカジュアルに小規模なワークショップがあちこちで開かれるようになれば、ちょっと面白いんじゃない?と思う。いかがしょう?
(筆者プロフィール)
シャイニー
・FLEDGE編集部編集長。毎回の勉強会の報告レポートを書いている。
・心理学を学んでる人。