場場場、場—ん
私はカフェになりたい、と常々思っていた。いつだったかそのような趣旨のツイートをどこぞの誰かがしていたが、カフェになりたい歴でいえば私の方が長い。確証はなくとも確信してしまうほど、私はカフェになりたかった。
人間はカフェになれないと断じるのは、赤子の手をひねるよりもたやすい。しかし、人間としての矜持を胸に抱くのなら、罪もない赤子の手を無意味にひねって悦に浸るより、その赤子を産む苦しみで身を焼くことをこそ、営みとすべきだろう。なぜと問うな。然りと頷き給へ。
繰り返しになるが、私はカフェになりたいと思っていたのだ。
カフェになりたいボーイ
ただし、血肉を鉄筋コンクリートやいい感じの木材に置き換えたいというわけではない。我が身はかわいい。そして持論だが、かわいさとはやわらかさだ。それを失うのは、まさに身を切られる思いがする。
カフェになるということを考えるために、足を運んだことのある10のカフェを頭に描いてみて欲しい。そのいずれにも共通点があり、細かくとも違いがあり、しかし、そのすべてをカフェと認めている。しからば、カフェにはカフェを足らしめるイデアの如き何かがあり、枝葉が違えと、それを得たならばきっと私はカフェになれるだろう。そう考えようじゃないか。
出会う男をすべてカフェにしてしまうガール
「狭き門より入れ。 滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。」と聖書は言っている。カフェになりたいボーイの多くが入る滅びの門は、カフェを纏おうとすることだ。
カフェには多くの共通点がある。落ち着いた雰囲気。洒落たBGM。珈琲。最近では、写真が映えるフードメニューもそれだろうか。数えればきりがないが、つまり、カフェにはモテの要素が詰め込まれている。現代日本におけるモテの見本市ともいうべき詰め込み具合だ。
事実、カフェに習い、カフェを実践することで、一定のモテは得られるだろう。清潔感があって、流行りもそこそこに取り入れて、覚えたてのカタカナを垂れ流す。しかしそれは、出会う男をすべてカフェにしてしまうガールに惑わされ、審美眼の焦点を流行に定めた哀れなボーイの末路と言わざるを得ない。まさに滅びにいたる門である。
半分は私怨だが、問題もある。カフェを見失っていることだ。カフェは近年の飲食店事情を加味した小ぎれいな店ばかりが全てではない。婆さんや爺さんが営む汚ねぇクセェなんか色々キッツイ、そんなカフェもある。それを恣意的に排除してしまっている。そこもカフェであり、そこもまた愛すべきカフェなのだ。(衛生的にマジで問題ありそうだけど、看板猫がいるカフェとかあるよね)
場
さて、そもそもの勘違いを正さねばならない。カフェは空間ではない。場である。そして、場とは空間のみを指しはしない。例えば、磁場や力場は視認できないし空間では捉えづらい。しかし、それらは確かに存在する場である。
手元にある辞書によれば、場とは「一、物事が行われている環境としての所。二、(劇で)ある場面を中心としたひとまとまりの区切り。」とある。場を空間として捉えれば、静止・凍結した像があるのみだ。しかし、語義には、そのようなイメージはない。
むしろ、運動するものとして定義されている。例えば、客の談笑も店員の忙しなさも、珈琲の匂いもないそこをカフェと認めるだろうか。否。それはカフェ的なものであり、死んだ、あるいは眠ったカフェであり、カフェではない。カフェは場なのだ。
場場
で、あるから、カフェになるためには、カフェをカフェ足らしめている運動を我が手中に納め実践する必要がある。
ちなみに、私はカフェで働いたことがない。働きたいと思ったこともない。人と関わりたくないのだ。無人島に何を持って行く?と問われれば、永住する覚悟でナイフと答えるほど人と関わりたくない。だが、カフェにはよく行く。行きつけの店もある。というか、私の行動圏は、家・職場・行きつけのカフェで完結している。寂しいと言ってくれるな、充足しているのだ。(ゴッホ展に行きたいよ!)
カフェによく行く私は、何をするか。書き物や残った仕事をする。同じくMac Bookを広げている人の中には、プログラミングや動画の編集をしている人をよく見る。ノートを広げている人は、そこに何か言葉を書き付けていたり、あるいはデザインやイラストの素描をしていたりする。本を読む人もいる。そういえば、某アイドルを行きつけのカフェで見かけたことがある。彼女はニンテンドー Switchでスプラトゥーンを3時間くらいやって帰っていった。文春の付け入る隙がない。
誰かと来ている人は、談笑している。商談をしている人もいる。食事をする人もいる。口説いている人もいる。そういえば、行きつけのカフェで仕事の残りを片付けているとき、店の奥の店員さんからは死角になったところで、キスをしているカップルがいた。禁煙のカフェだが、口が吸えるくらいだ煙草を吸っても問題なかろうとライターに手が伸びかけた。
こうして我々は皆、カフェで居合わせている。しかし、我々は同時にカフェですれ違っている。カフェにおいて我々は内と外を任意に分け、接続と切断を自由に行っている。
対面する友人や恋人をのみ内と定めれば、世界は2人だけになる。だが、不意に開かれ、その世界への来訪者を許すとしたら、カフェにいる誰かと新しく線が結ばれ3人、あるいはもっと多くの人との世界が出来上がる。あるいは、たくさんの誰かがいるにもかかわらず、完全に閉じてしまうこともできる。これらはすべて個人の裁量で行われる営みだ。
それはすべて、カフェという場の中で行われる。カフェは社会の中にあり、独立した社会を築いている。そこでは人々は、任意に接続したい外部を選択し接続と切断を自由にできる。そういった、場がカフェである。
場場場
改めて。私はカフェになりたい、と常々思っていた。
カフェになるとは、カフェの持つ形式を模倣して纏うことではない。また、カフェは空間ではなく、場である。場を足らしめるのは、そこで行われる活動であり、運動だ。そして、カフェでは自由な接続と切断を許すという運動がある。
人は、何かの社会と接続している。親兄弟や恋人という小単位の社会から、学校や会社、地域や国という大きい単位の社会まで、その時々で濃淡はありながらもそれらと常に接続している。あるいは、その接続によって私たちの中にあるこの私ではない別の私たちが生まれ、この私はあの私へとの交換を迫られる。
であるならば、カフェになるとは、いかなる社会からの拘束から逃れる外部となり、アウターヘブンになることなのか。そうではない。それはできない。そして、カフェもそのようなことをしていない。カフェは社会の内側にある。ありながら、その中で任意の接続が許される運動があるのみだ。
そう、あるのは運動だ。接続と切断を手中に収めよという運動。
私が誰かと出会うとき、社会が生成される。そのとき誰かは私にとってのあなたになる。しかし、いかなるあなたになるのか、それを強いない。あるいは、なろうとしているあなたへなれない何かを取り除いてやる。あなたでいいと認めることではない。その発露を支援する。そのために、あなたになるために、このわたしがどのわたしになるのか、その接続と切断を自由にしてやる。それがカフェになるということだ。
場場場、場—ん
最後に、私はカフェになりたい、と常々思っていた。一切は過ぎゆくばかりだ。今も、私はカフェになりたいと思っているのか、わからない。なれるかもわからない。ただ、これからのことは運命にゆだねてみようと思う。
バババ、バーン
だうに